格言・名言・俚諺で考える
学習法大全

Dictum003

「明日を考えぬ者のみが、最も今日をよく生きる」は、〇か×か?

古代ギリシャ・ヘレニズム期の哲学者エピクロス(Επίκουρος/Epíkouros 341B.C.ー270B.C.)の言葉、いや正しくは、それを私が勝手に改釈して捻り(ひねり)出した言葉です(註1)。元にしたエピクロスの箴言(しんげん)の正確な文言は以下の通り(註2)

「明日を必要とすることの最も少ない者こそ、最も快く明日に立ち向かうであろう」
“He who least needs tomorrow, will most gladly greet tomorrow.”(註3)

この言葉、「俺たちに明日はない」「明日に向かって撃て」(註4)といった若者にありがちな刹那主義とは違う、かといって「土岐・運・来(とき・めぐり・きたる)」と紺地に白で染め抜いた半被(はっぴ)を羽織って、今日こそ「将に時来らん」と喧伝して走り回るのでもない(註5)。ましてや「今を生きる」とか「今しかない」とも全く違う。否応なしにこちらに迫ってくるものがあります。何故(なにゆえ)にか?

エピクロスがこの断片的箴言で何を語りたかったかは、古代ポリス社会崩壊後の時代状況を踏まえた思想的背景を正確に跡付ける必要があります(註6)。が、その文脈をまったく飛ばして、ある詩をこれに重ね合わせてみます(註7・8)

世界がほろびる日に

世界がほろびる日に
かぜをひくな
ビールスに気をつけろ
ベランダに
ふとんを干しておけ
ガスの元栓を忘れるな
電気釜は
八時に仕掛けておけ

これは只ならぬことです。何があろうと起ころうと、昨日とまったく同じ今日を精密に反復すること、この一点に賭けることが果たして私たちにできるのか? いやできますまい、少なくとも私には到底、達し得ない。“きっと明日はよくなるはずだ、今がどれほど大変でも、明日には雨も止んで晴れてくるさ、だから今は明日のために備えようではないか“と、生き方論などと称して“皆”がこぞって私に語りかけてくるのです。“今日、頑張れば必ず明日は報われる”とか言って、“彼等”は今の私を慰めにかかるわけです。そうではない、断じてそうではない、と反駁してみたくなる。

己が思念を誤解されてその名に由来する言葉となってしまった快楽主義(epicureanism)が含意するような享楽をエピクロスが唱えたのではないことは、もうどなたも知っておられるでしょう。エピクロスの思想の中心に位置する「アタラクシア(αταραξία/ataraxia 平静心)」は、「動揺(タラケーταραχη/tarachē)なきこと(αはギリシャ語で否定の接頭辞)」を意味します。それは日々を淡々と「暮らす」こと。エピクロスは「隠れて生きよ」とも断じます。

“生きる”も然り,“生活”さらには“人生”という言葉は、どうも嫌だ、何かウェットでベタついた印象が付き纏(まと)います。でも「暮らす」ならどうでしょうか? もともと「暮」は「莫」からできた文字で、「莫」は“草原に日が沈む“を表す会意文字。それにもう一つ「日」を加えたのが「暮」。一日一日が“誰彼時(たそかれとき)“とともに終わる、こうやって恬淡(てんたん)と「暮らす」ことはだれにもできないけれど、でもだれもができればと希う。

どうか皆さん、明日のために、大学に合格るため、ましてや将来の生活のためにベンキョーするなんて思わないでください。「今が時機(とき)だ」とは申しません。でも、「今も時機だ」。単語1つ、数式2つ、物理の概念を3つ、歴史の年号を4つ、その発見こそが「暮らす」ことと等価であること、そうでないなら、何がベンキョーでしょうか。

今回、やっと標記の言葉の出典を匡す(ただす)ことができました(註1)。○か×かはあなたに委ねましょう。どうかこの箴言が語る覚悟が皆さんに伝わりますように!

註1 : 急いで、初めに付け加えておかなくてはならないことがあります。実はこの言葉を私が講義で話したという記事がネット上にありますが、間違ってストア派の言葉とされているのです。ヘレニズム期の哲学三派ーストア派・エピクロス派・懐疑派ーの概略を話してからいつもこの言葉を語るので、講義を受けたどなたかが記憶違いでストア派の言葉としてしまい、どうやらそれが広まってしまったみたいです。エピクロスそして私(?)の名誉のために、ここに記しておきますが、エピクロスの言葉です。

註2 : 『エピクロス 自然について 他』(朴一功・和田利博訳) (西洋古典叢書/ 京都大学出版会 2025) エピクロスの言説はほとんど断片しか残っていないのですが、その決定版とも言える翻訳が最近出たので、そこから引用しました。解説は見事です。入手しやすいものとしては、『エピクロス 教説と手紙』(岩波文庫 出隆・岩崎允胤訳)があります。

註3 : 英訳として最も一般的なものを添えておきました。が、ここで英語の講師が頭を擡(もた)げてしまって嫌になるのですが、それはhe who ...のことです。通例、人称代名詞は、制限用法は言うまでもなく非制限用法でも先行詞になることはありません。しかし、<一般の人>を表しているような場合には、先行詞になることがあり、he/she/you/they who ...(・・・する人(々))となります。とりわけ、he who ...は諺や格言などに残っている用法で、たまに入試英文にも顔を出します。one who ...に置き換えて理解します。憶えておきましょう。

註4 : 今回は註が多くてスミマセン。二つともアメリカン・ニューシネマの傑作(前者は1967年、後者が1969年)とされている映画の邦題ですが、原題はまるで違います。当時は映画として人気が出る邦題が付けられることはごく普通に行われていて、実はこれらもそう。今で言うキャッチコピーですが、実に冴えていたな、と今さらながらに思います。奇(く)しくも、この文章を脱稿した後に、ロバート・レッドフォードの訃報が届きました。“あの時代”が完全に終わりを告げたということです。

註5 : 一応、明治期の詩人と言っておきましょう北村透谷の言葉です。透谷は本当にそうやって走り回っていたらしいです。そういえば「北村透谷 わが冬の歌」(1977)という映画がありました。脚本は菅孝行さんでした。

註6 : エピクロスについては、もっと考えてみたいことがあって、このサイトが残っていればの話しですが(笑)、[Dictum 127]くらいで書いてみましょう。ただ一つだけ、最も美しいエピクロスの解釈として、作曲家でピアニストの高橋悠治「自然について=エピクロスのおしえ」(初出 『エピステーメー』1976年6・7月号)『きっかけの音楽』所収(みすず書房 2008)を挙げておきます。

註7 : 石原吉郎 詩集『禮節』所収の詩です。手に入りやすいものとしては『石原吉郎 詩文集』(講談社文芸文庫 2005)がありますが、もし見つかるなら『石原吉郎詩集』(現代詩文庫 思潮社) をお薦めします。詩集は何より判型と活字と手触りです。

註8 : “世界が滅びる日”という言葉に始まる詩は、実はもっと有名なものがあって、惜しくも最近亡くなった谷川俊太郎が書いた「風邪を引いた日」があります。長くなるので、詰めて引用します。「世界が滅びる日に風邪を引くな/風邪を引いたら/せっかくの滅びが台無しではないか/あわただしい滅びのあとで/ひっそりと熱を出すのも/なんだか淋しいことではないか/世界が滅びる日に風邪を引くな/僕のからだにひびきわたるくしゃみの音/それが世界の終りの合図だなんて/だれが信じてくれるだろうか」(『二十億光年の孤独』所収)。この詩が些か暖色の色合いを帯びているとするならば、石原吉郎はなんとまあ寒色の風景を描き出すことでしょう。