格言・名言・俚諺で考える
学習法大全

Dictum001

「タマノスのミミズクは彼誰時に飛び立つ」は、○か×か?

○である、いや○でありたい。

そもそも標記の文言は、格言でも名言でも、俚諺ですらない。だって、私が詠んだんだから。捏ち上げた理由は二つある。

一つ。フクロウが流行ってるとのことである。そこで、我がタマノスの“マスコット”である。流行に肖ったのかと言われるのは癪である。それと、フクロウと誤解されては困る。あらゆる言語を調べたわけではないが、フクロウとミミズクを言葉として分けている言語と、同じようにフクロウと称する言語があるらしい。英語ではフクロウはowlースミマセン、英語の講師が頭をもたげて、発音は/aʊl/ですーで、ミミズクは複合語になり、horned owlとかeared owlと呼ぶらしい。で、この語からも明らかなように、horned/earedのところは、日本語にすれば「羽角がある」ということになる。実際は所謂、角ではなくて、だからhornではなくて、羽根がそばだっているだけなのだそうだ。この羽角がある方を日本語ではミミズクと言って、フクロウとは区別している。ついでに言うとミミズクの小型のものがコノハズクとのこと。このことからすると、ウチの意匠は紛れもなくミミズクである。いずれにせよ、しかし、どちらも生物学的にはフクロウ目フクロウ科に属する。だから,そんな細かいこと言わなくても…、となるが、そうではない理由がいま一つある。

二つ目の理由。標記の文言は、ヘーゲルの『法(の)哲学』の序文にある有名なを言葉をもじったものである。正確に引用すれば「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏とともに飛び始める」(Die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug.)だが、大概は「ミネルヴァの梟は黄昏とともに飛び立つ」( The owl of Minerva spreads its wings only with the falling of the dusk./ The owl of Minerva begins its flight only with the onset of dusk.)くらいで使われている。この言葉をざっと解釈する、「哲学は、いつも遅れてやって来るものであり,ある時代や出来事が終焉を迎えた黄昏時なって初めて世界を一個の体系として理解し把握することができる」と読む。この言説の補助線としてヘーゲルはこうも語っている、「哲学とは在るべきものではなく、在るものの概念把握である」(Die Philosophie ist nicht, was sein soll, sondern was ist, die Auffassung in Begriffen./ Philosophy is not concerned with what ought to be, but with what is, with the apprehension of it in concepts.)。さらに理解の前提をもう一つ。ミネルヴァはローマ神話に出てくる女神で、音楽・詩・医学・智恵などを司るエライ神様で、その肩には梟を従えている。そして梟は瞑目するかの如きその風貌もあって、古来より智恵の象徴とされてきた。ヘーゲルは自らを不遜にもその智恵の象徴になぞらえ、自分が時代の結節点の最後にやってきて、あらゆる学を纏め上げた、と言いたい。古代のアリストテレス、中世のトマス・アクィナスの列に自らを加えるとの宣言でもある。何しろベルリン大学の総長である。大学の総長は今よりも遙かに地位は高かったらしい。もうエスタブリッシュメントである。

そのヘーゲルは同じ『法哲学』の序文の中で、さらにもう一つ有名な言葉を語っている。曰く「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」。これをもの凄く大まかに言い直すと、「現実世界は既に合理的で素晴らしいものとして出来上がっており、理性的な理念は既に現実のものとなっている」という非常に体制的で保守的な思想として読み替えることができる。何と言ってもベルリン大学総長、もう名を成した大哲学者なんだから、現実肯定主義者のヘーゲル、という具合に、昔からこの言葉はあんまりよくは思われていない。が、である、その同じ『法哲学』に講義録というのが残っていて、多少、肩書き抜きで気楽に語ることができたであろうその講義の中では、実はヘーゲルの言葉は少し違っている。こうだ、「現実的なものは理性的なものに成り、理性的なものは現実的なものに成る」。「である」はドイツ語でsein(英語ではbe)、「成る」はwerdenー英語にするとbecomeだがチョット、ズレる、「生成」の意味で取るーで、こうなると解釈はまったく異なってくる。自らの哲学を、即ち「最高の共同が最高の自由である」というこれまた難解な彼の理念を、この現実世界で如何に実現するか、そう語っている、らしい、少なくとも彼の中では。

で、標題に戻る。そのヘーゲルに肖って、ミネルヴァならぬタマノスの肩に、フクロウならぬミミズクを乗せ、時代の結節点の「黄昏=誰彼(たそかれ)」の「夕暮れ」なんぞではなく、「曙=彼誰(かわたれ)」の「暁」に、飛び立つ、としてみたらどうだ。そう、「タマノスのミミズクは彼誰時に飛び立つ」という大言壮語にしてみたら。

長くなった、了とする。

なので、○である、いや世知辛い憂鬱な現在において、ささやかながら、○でありたい、と思う。いやいやこの私が飛び立つのではない、飛び立つのは皆さんだ。だから、私としてはせめて皆さんの肩に手をやって、長距離ランナーの皆さんと三十メートルくらいは息絶え絶えながら、エッホ、エッホと伴走して、水分補給くらいはできるようにしたい、と希う。この一回目くらいは高らかにそう宣言するのを赦していただけるのなら、嬉しい限りである。